Interview

【トヨタ自動車】ビジネス×研究者の理想チームをどうつくる? WAVEBASE事業化までの歩み

日本を代表するグローバル企業・トヨタ自動車株式会社(以下、トヨタ)では、排ガス触媒、磁石、半導体や電池関連素材など、つねに幅広い分野での研究開発が行なわれている。そこから生まれた新規事業が、材料分析データ解析クラウドサービス「WAVEBASE」だ。

実験・計測で取得したデータに対して「解析に多大な労力がかかる」「データクレンジングに時間がかかる」「解析に必要な技術が属人的である」といった課題をクラウドサービスで解決することで、素材会社などの材料開発をサポートする。事業アイデアが生まれたのは、トヨタの材料開発の研究部門。日々、材料開発に向き合う技術者から起案された、いわゆるシーズ起点の新規事業だ。

一般的に敷居が高いとされるシーズ起点の新規事業開発の課題を「WAVEBASE」ではいかに乗り越えたのか。ビジネスデベロップメントとしてプロジェクトを推進した山口剛生氏にうかがった。

技術を世に出したい。研究所時代に感じた「もどかしさ」

機械学習などの情報科学を用いて、材料開発の効率を高める技術「マテリアルズ・インフォマティクス(以下、MI)」。トヨタは2021年4月、企業のMI導入を支援する新規事業「WAVEBASE」をスタートさせた。

具体的なサービス内容は主に2つ。1つ目は企業の材料開発部門などに対して、研究開発で生じる分析データの解析作業、およびインフォマティクスの活用を効率化するクラウドサービスの提供。

2つ目はこのクラウドサービスを用い、クライアントの目的に合わせて最適なデータ活用を提案するコンサルティングサービスだ。

山口:近年のDXブームと同様に、MIも多くの企業が推進するトレンドになっています。多くの場合、まず経営陣の指示によりMIプロジェクト推進グループが結成され、コアメンバーがさまざまな知識や技術を習得するところから始まります。

しかし、そこから組織を横断したデータ収集、整理の難しさなどの課題によって社内全体に広がらず、プロジェクトがストップしてしまうことも多いんです。

また材料開発で生じる顕微鏡写真などのデータに対して、そのままの状態でインフォマティクスを活用することが難しいことも、データ活用の浸透を阻む原因の一つであると考えています。

一部のコアメンバーだけでなく、さまざまな部署の開発チームや会社全体で研究開発データを活用し、効率化できるようサポートするのがWAVEBASEの最大の提供価値になります。

山口氏自身、エンジニアとして材料研究に従事したいとの思いからトヨタへ入社したという。入社後、自動車開発の関連部門を経て念願の研究所へ異動するが、徐々にあるジレンマを抱くようになる。

山口:研究所での仕事自体はやりがいがありました。ただ、せっかく良い研究や技術があるのに、なかなか世に出せないことにもどかしさも覚えていました。

そこで、社会起業家の活動をマーケティングで支援する海外プログラムに参加してみたり、「シーズ起点で事業を生み出す方法」について情報を集めたりしていたんです。それから少しして、新規事業開発をミッションとする先進技術統括部への異動の辞令が出ました。

山口剛生氏
山口剛生氏

バリバリの技術者から、未経験のビジネスサイドへ

WAVEBASEのプロジェクトが始動したのは2019年。山口氏がそれまで所属していた研究所(先端材料技術部)から先進技術統括部へ異動した3か月後には山口氏を含むプロジェクトチームが立ち上がっていた。

山口:先進技術統括部のミッションは、トヨタがこれまで積み上げてきた技術や知見を活用し、新規事業として世に出すこと。それはまさに私が研究所で模索していた「シーズ起点での事業開発」そのものでした。

社内のさまざまな技術を集めて新規事業アイデアを検討するワークショップなどを開催するなかで、私の古巣の先端材料技術部から提案されたのがWAVEBASEの前身となるアイデアです。提案者は前部署の上司の庄司と先輩の矢野。そこから庄司をリーダーに、彼らと私の3名でプロジェクトがスタートしました。

庄司氏と矢野氏は長く材料研究に従事してきたベテランエンジニア。山口氏も異動までずっと技術畑を歩んできた。つまり、事業企画や営業、マーケティングなど、新規事業開発に欠かせないビジネスデベロップメントが不在という状態でのプロジェクトスタートだった。

山口:たしかにスタート時のチームは技術者ばかりで偏りがあったかもしれません。ただ、シーズ起点の事業開発では、技術のことがわかる人間がいないと話になりません。だから最初は、いかに技術者のメンバーが、開発に集中できる状態をつくれるかということに注力しました。

そしてビジネスデベロップメントの役割は、山口氏が担うことに。社会人大学院へ入学し、ゼロイチで事業をつくるために必要な知識とスキルを習得。チーム内ではビジネスサイドのリーダーとして立ち回ることになった。

山口氏にとっては大きなキャリアの転換点だが、すぐに切り替えることはできたのだろうか?

山口:最初はかなり違和感がありました。ただ、プロジェクトがスタートした時点で、技術のことしか頭になかった入社当初に比べればだいぶ視野は広がっていたと思います。

それは、周囲に新規事業や新しいサービス開発に挑戦する先輩や同期がいて、彼らの志に触れてきたから。事業が立ち上がっていくところを近くで見ていて、「もしかしたら自分もできるかも」と勇気をもらっていたところもあると思います。

ビジネスと研究者のせめぎ合いを、クオリティーにどうつなげるか?

その後、徐々にチームメンバーも増え、早い段階で見込み顧客も見つかった。順調な事業立ち上げに見えるが、山口氏はそのなかでチームの足並みを揃えていくことの難しさも感じていたという。

山口:これはシーズ起点の新規事業開発あるあるかもしれませんが、技術者中心のチームだと、どうしてもプロダクトアウトの考え方になりがちです。

顧客の課題やニーズが十分に検証できていない段階でも「とりあえず新技術でつくってみよう」という話になってしまう。私たちも初期の頃は、結果的に無駄なものをつくってしまっていた自覚がありました。

私はビジネスデベロップメントとしてそれを防がなければいけない立場でしたし、お金の使い方もシビアに見ていく必要があった。とはいえ、口で言うだけでは技術者メンバーも納得してくれません。

そこで、山口氏は「シーズ起点の事業開発を成功させるために必要な仕事はすべてやろう」と決意する。ビジネスデベロップメントの仕事に加え、社内稟議を通すための資料づくりや調整作業、メンバー集めに予算の確保など、技術開発以外のあらゆる仕事に奔走した。

山口:そのうち「そこまでやっているなら」と、ビジネス側の意見も徐々に聞き入れてもらえるようになりました。また私自身がもともとエンジニアだったことも大きいと思います。私が完全にビジネスサイドの人間で、一方的に事業開発のやり方を押しつけるだけだったら、どこかで空中分解していたかもしれません。

開発メンバーそれぞれの思いや葛藤は、もともとエンジニアだった山口氏にも十分に理解できた。だからこそ、一方的にビジネス側の都合を押しつけたり、技術者の思いをないがしろにすることがないよう、コミュニケーションには気を配っていたという。

一方で、サービスやプロダクトの品質に関してはぶつかることもいとわず、妥協せずに追い求めた。

山口:新しい分野の事業なので、チームとしての品質基準も確立されていない状態。そのなかでサービスのクオリティーを上げるには、個々のメンバーが高い意識を持つ必要がありました。

時には厳しいことを言う人間も必要で、そこで「嫌われ役」のような難しい役割を担ってくれたのがチーフプロフェッショナルエンジニアの庄司です。

また、私は私でビジネスデベロップメントとして、クライアントが抱える課題や要望をきちんとヒアリングし、齟齬なくエンジニアに伝え、プロダクトに反映していく必要がありました。

開発を進めていくうちに顧客視点が抜けてしまうことはありがちなので、客観的な視点に立ち戻ることも大切ですね。

顧客の声を齟齬なくエンジニアに伝えるための対策として、クライアントからのヒアリング内容を一つひとつドキュメントに起こすほか、最近は業務フローの標準化など、事業開発のクオリティーを上げるための仕組みづくりにも取り組んできた。

山口:その結果、以前よりも芯を食ったサービス開発ができるようになったと思います。またチームメンバーの意識も少しずつ変化していて、顧客起点でアイデアを考えるケースが増えてきました。

そもそもトヨタには「だれかのために」「誠実に行動する」といったような企業文化があります。WAVEBASEのエンジニアは研究所出身者が多いため、普段はお客さまと直接コミュニケーションをする機会がありませんでした。しかしWAVEBASEプロジェクトを通じて、顧客視点を持つことができるのは、そういった基本的な所作があるからかもしれません。

WAVEBASEのプロジェクトメンバーはいまも月1回、研究所に集まってコミュニケーションする時間を設けている。「その事業アイデア、技術は、誰の課題解決につながっているのか」を繰り返し問い、時には一日かけて話し合うことも。こうした地道な取り組みがサービスの品質向上につながっているようだ。

「自分ができること」に限界を設けない

ビジネスデベロップメントとエンジニア。目指すプロジェクトのゴールは同じでも、そこにたどり着くための役割や考え方は当然違う。だからこそ事業開発では、両者の間をつなぐポジションが重要だと山口氏は言う。

山口:日々、研究所で技術開発をしていると、宝のように思える技術やアイデアがたくさん出てきます。しかし、いかに素晴らしい技術でもニーズがなければ世に出すことは難しい。重要なのは、その技術のなかから本当に顧客の課題を解決できそうなものを拾い上げることです。

それを判断するのが事業開発担当の役割といえますが、こちら側も技術への理解がなければ、どれが「良いシーズ」なのかがわからない。

WAVEBASEのようなソフトウェアサービスの場合も、機能をどんどんアップデートしていくためには、ビジネスサイドに少なくとも1人は技術開発のことがわかる人間が必要だと思います。

バリバリの技術者から新規事業の推進という、畑違いの役割を求められることになった山口氏。当初は戸惑いもあったが、いまでは大きなやりがいを感じているようだ。

山口:私もそうでしたが「新規事業創出」「社内起業」と聞くと、自分の普段の業務、これまでやってきたことと大きくかけ離れていると感じるかもしれません。

しかし、実際にはそれほど距離があるものではない。自分がそれまで積み重ねてきた仕事のなかには、きっと社会課題の解決につながるようなシーズがあるはずですから。

大事なのは、「自分ができること」に限界をつくらないことだと思います。私でいえば「技術しかやったことがないから無理」なんて考える必要はまったくない。

限界を決めず、できるところから行動する。そうすれば、たとえ未経験でも十分に成果が出せるのではないでしょうか。少なくとも私にはその実感があります。

取材・執筆:榎並紀行(やじろべえ株式会社) 編集:佐々木鋼平、原里実 撮影:西田香織
公開日:2024/03/25

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トヨタ自動車株式会社

山口剛生

事業開発本部 新事業企画部 事業開発室 WAVEBASEグループ。2010年大阪大学大学院工学研究科マテリアル生産科学専攻修士課程修了、トヨタ自動車株式会社入社。入社後は、自動車に開発における防錆評価、塗料開発に従事。断熱・蓄熱材料の先端研究の業務を経験した後、2019年に社内にて、新規事業支援組織の立ち上げを推進。同時に、材料データ解析クラウド事業WAVEBASEプロジェクトを立ち上げ現在に至る。