Interview

【キリン】ホップに惚れ込んだ研究者。異例の新規事業立ち上げ奮闘記

【キリン】ホップに惚れ込んだ研究者。異例の新規事業立ち上げ奮闘記

キリンホールディングス株式会社(以下、キリン)は、1888年に初めてビールを発売して以来、ワイン、ウイスキー、ノンアルコール飲料など、日本の食卓に欠かせない多種多様な飲料を開発してきた。同社は飲料開発の裏で、ビールに香りや苦味を出すホップの研究にも取り組んできた。ホップは古くからハーブとして使われてきた歴史があり、最近の研究ではさまざまな健康機能が明らかになっているという。

2019年、キリンはホップを健康素材として広めるべく、株式会社電通と共同でINHOP株式会社を立ち上げた。旗振り役は、2009年にキリンに入社し研究者としてキャリアを積んできた金子裕司氏だ。キリンが開発した新たな健康素材の可能性と、研究員だった金子氏が新規事業開発に携わることになった経緯に迫る。

異例のキャリア、研究員から社内起業家に

日本では、成人ならほとんどの人がビールを通してホップを一度は口にしたことがある。しかし、昔から多くの人がビールを楽しんできた一方で、素材であるホップの存在や健康機能はあまり知られていないのが現状だ。

20年以上ホップについて研究してきたキリンは、まだ世間に認知されていないホップが持つ健康機能を、さまざまな形で活かしたいと考えるようになったという。そこで、これまでは苦すぎて食品やビール以外の飲料に使用しづらかったという弱点を乗り越え、苦みを10分の1に抑えた「熟成ホップエキス」の開発に成功した。

INHOP株式会社 金子裕司氏

以降、熟成ホップエキスを中心とした健康課題解決とホップの価値化を推進するという目標のもと始まったのが電通と協業で取り組むINHOPだ。当時ホップの研究員だった金子氏は、INHOP事業の代表取締役社長として抜擢された。

金子氏がホップをつかった事業の立ち上げに関わることになった理由は、熟成ホップエキスの研究開発と商品開発両方に携わってきたからだという。「社内の誰よりも熟成ホップエキスについて詳しい自信がありました」と、金子氏。

金子氏は新卒で麒麟麦酒株式会社(当時)に研究員として入社し、機能性食品素材(健康機能を有する栄養素や機能性成分)や食品、ノンアルコールビールの研究開発に従事してきた。その中でもホップの研究が長く、熟成ホップエキスを活用し「お腹まわりの脂肪を減らす」と銘打ったノンアルコールビール『キリン カラダFREE』を開発するなど、研究者として組織に貢献してきた。

一方、熟成ホップエキスの実用化が決まった後、世間ではまだ存在が広く認知されていないホップのブランディングや発信方法について考えるようになった。そこで繋がったのがブランディングに知見がある電通であった。

「電通のみなさまに熟成ホップエキスやホップの価値化について相談したところ、ホップの可能性を感じていただけました。結果、電通は消費者への訴求やコミュニケーション、ブランディングを、キリンは研究・開発の役割をそれぞれ担うと最適な形になると議論し、ジョイントベンチャーを立ち上げて一緒にホップの拡大を目指すことになりました」と、金子氏は説明した。

研究員による新規事業立ち上げは、キリンにとって異例のこと。大幅なキャリア転換のきっかけには、金子氏のホップに対する思いがあった。

「ほとんどの人がビールを飲んだことがあるのに、素材の一つであるホップについては全く知られていないというギャップに、研究をしながら面白さを感じていました。そこで、健康素材としてホップの活用方法を模索することで、新たな市場をつくれるのではないかと考えました」

熟成ホップエキスをつかった商品開発がゴールではなく、ホップの認知度を高め、人々の生活に役立ててもらうことがINHOP事業における目標であると強調した。

ホップが持つ可能性を、ビールだけに閉じていたらもったいない。長年ホップを研究し、誰よりも素材としてのポテンシャルを知るという金子氏を中心に、新規事業開発プロジェクトが本格的に動き出した。

ホップの認知の低さを、どう乗り越える?

INHOPが手がける事業は大きく2つに分けることができる。お菓子やサプリメントなどBtoCの商品開発・販売と、もう1つは熟成ホップエキスのBtoB販売だ。当初は、熟成ホップエキスをBtoB事業として積極的に展開できると考えていた。しかし、市場分析や顧客へのヒアリングを進める中でホップの存在と活用方法があまりにも世の中で認知されていないことに気づき、ホップを使った商品開発から取り組むことになった。

金子氏は、まずは人々がホップを知り身近に感じてもらえるよう、食品、飲料、サプリメントなどを開発し、消費者とのタッチポイントを増やす方法で認知拡大に励んだ。

商品第1号は、シンキングサプリ『ホップイングミ』・『受験力』という思考する時間をサポートする商品群だった。後にミシュランガイド掲載店シェフ鳥羽周作氏監修の『ホップインチョコ』や、お腹周りの脂肪と注意力を同時にケアできる機能性表示食品『ホップ効果』なども開発し、商品のバリエーションを増やした。

ラインナップを増やす上で金子氏がこだわったのは、「情緒的価値」だったという。一体どういうことなのか。

「ホップの特徴がわかりやすく伝わるよう、商品を開発しました。『体に良い』という機能的価値はもちろん、『おいしい』、『見た目が可愛い』、『伝統ハーブでカラダに優しい』など、情緒的な価値をいくつか持っているのがホップの特徴です。グミやチョコ、ミシュランシェフの監修商品などを通してホップの良さを可視化し、消費者や企業にホップを試したいと思ってもらえるよう商品を工夫しました」

世間には多種多様な健康素材が溢れており、ホップはその中で戦わなければならなかった。まずは手に取りやすい商品開発や味覚開発に注力することで、消費者との距離を縮めることに専念した。

ソーセージから化粧品まで。熟成ホップエキスの可能性を広げたい

BtoB事業では独自開発した熟成ホップエキスを、商品開発に取り組む企業やブランドに提供している。事例の1つに、「熟成ホップ入りソーセージ」がある。信州ハム株式会社、プロサッカー選手の長友佑都氏の専属シェフである​​加藤超也氏、INHOPの3者で取り組んだ共同プロジェクトだ。食事を徹底的に管理することで有名な長友選手の好物がソーセージだったことからアイデアが生まれた。「スポーツをする人のためのソーセージ」というコンセプトのもと、「熟成ホップエキス」を活用し、必要な栄養を補給しながら美味しく食べられるという食品に仕上げた。

さらに熟成ホップエキスは飲料や食品だけでなく、化粧品としてもその効力を生かせる可能性があるのだという。

「伝承的に、ホップ農家の手は綺麗だと言われており、ホップを使った化粧品もいくつか存在します。実際に熟成ホップエキスに関しても化粧品素材としての可能性をキリンとファンケルが共同検討したところ、角栓除去機能があることがわかり、ファンケルからの商品化に至りました」と金子氏。

こうして熟成ホップエキスの可能性は食品から化粧品にも広がった。このようにINHOPは、他社に熟成ホップエキスを原料として提供し、共同で商品を開発している。ホップの活用事例を増やすことで、事業の最大の目的であるホップの魅力を世間に広めたい、熟成ホップエキスの可能性を知ってもらいたいという一心で、金子氏はパートナー企業にアプローチし続けている。

コロナ禍、予期せぬ課題に直面

INHOPについて金子氏は「新規事業のフリをした既存事業」だと語った。事業体こそ社内ベンチャーではあるが、事業内容は食品および食品素材の販売と、従来からキリングループが行っている内容であるためだ、と。その上で、キリンに不可欠なホップを使った事業であり、ホップに思い入れのある人も多いため、社内で協力してくれる人も多かったという。

しかし、INHOP立ち上げと事業推進においては2つの点に苦労した。1つは健康機能を商品に表示するために不可欠な機能性表示食品への適合だった。機能性表示食品の開発にあたっては、国が定めるルールに基づき、安全性と機能性に関する科学的根拠など必要な事項を満たし、揃えた書類を消費者庁長官に届け出てから、販売することが義務付けられている。

「機能性はもちろん、安全性、製造方法・分析、お客様対応体制など、届出する書類は多岐にわたります。届出の過程で行政や市場のトレンドが変わることもあり、対応事項はさらに増加します」

ホップの機能的価値を消費者に伝えるために不可欠な機能性表示食品。キリンの研究・品質保証チームと連携することで、無事に届出受理に至ったものの、当初計画よりかなり後ろ倒しになったという。

2つ目は、コロナショックに直面したことでBtoC商品の販路が限られてしまったことだという。例えば、商品第1号であるシンキングサプリシリーズは塾や全国大学生活協同組合連合会(全国大学生協連)など、学生や受験生が集まるコミュニティでの販売を狙っていた。しかし会社設立直後からコロナ禍が始まり、消費者が集まる場そのものが極端に少なくなっていった。

「立ち上げ早々、Web販売主体にピボットせざるを得ませんでした。コロナ禍でEC市場は拡大したとは言え、競合商品も多いレッドオーシャン。どのようにBtoC商品を拡大していくか、お客様に価値をお届けしていくかは、依然大きな課題です」

多様な商品が開発・発売されている昨今、ただ商品を開発するだけでは消費者に価値を伝えていくのは難しい。これまでの活動で、ホップのすそ野を広げる商品、ホップの健康機能を伝える商品を開発し、ホップ市場の開拓を進めてきた。ここからは、『ホップ効果』など自社のBtoC商品を拡大させながら、BtoB事業である企業への「熟成ホップエキス」の提供を加速しようとしている。中長期的には、機能性食品素材として多くの企業に熟成ホップエキスを幅広く活用してもらうことで、消費者とホップのタッチポイントを拡大しようとしている。

新規事業は「実験」と似ている?

研究職から新規事業開発に挑戦した金子氏は、自身の挑戦について振り返りながら、社内起業家を目指す人へのメッセージを語った。

「新規事業はさながら総合格闘技。守備範囲は事業に関わるもの全てで多岐にわたります。大変なことはもちろん多いですが、一方で自らの行動と判断でものごとが決まり、お客様の反応を通してその成果を直接確認できるのが面白い点です」。自らの意思を持って冒険できるのは、新規事業の魅力であると語った。

また、研究職出身の金子氏は、技術系・理系の人材は新規事業に向いていると話した。最後に、研究職や理系人材に向けたメッセージを聞いた。

「一般的な科学研究では事象を観察して仮説を立て、実験・検証し、その結果を踏まえて次の仮説設計、実験・検証と進んでいきます。一方、新規事業も仮説検証の繰り返し。対象は科学現象ではなく『世の中・お客様』です。お客様の課題解決に向けた仮説を設計し、実際にサービス・商品をローンチして、世間がどう反応するのかを検証する。その結果を踏まえて、また次の仮説を立て、再度お客様にあてていく。研究職の方は普段から仮説検証に取り組むことが多く、新規事業における仮説検証プロセスを既に何回も経験していると言えるでしょう。そのため、研究職こそ新規事業開発に向いていると感じます。機会があればぜひ新規事業に挑戦し、世の中と向き合う実験を楽しんでいただきたいです」

執筆:ぺ・リョソン 編集:林 亜季 写真:曽川 拓哉

金子 裕司-image

INHOP株式会社

金子 裕司

1984年生まれ、埼玉県出身。早稲田大学大学院修士課程修了後、新卒で麒麟麦酒株式会社に入社。機能性素材・食品の研究開発を担当し、複数の商品開発に携わる中、食を通じた健康管理の重要性と「ホップ」が持つポテンシャルを強く認識する。独自素材「熟成ホップエキス」と同素材を搭載した「キリン カラダFREE」の開発を経て、2019年にINHOP株式会社を設立。ホップの力を駆使して、健康課題を中心とした社会課題の解決に挑む。